昭和48年01月21日 朝の御理解
御理解 第45節
「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
身代が出来たり、先生と言われるようになると、頭を下げることを忘れる、というのはどういう訳だろうか。それをいわば本当の信心によって先生と言われる。本当のおかげを頂いて信心を分からせて頂いて、頂くおかげであるならば絶対、頭を下げると言う事は忘れられなのである。信心によるおかげではない。信心による先生はないから、頭をついつい下げる事を忘れるのである。そこで分からせて頂かなければならない事ですけれども。信心を頂くと言う事。これはおかげを頂くと言う事とは違う。信心を頂く。
ですから私共が大改まりに改まって、所謂信心とはと言う所に基づかなければならない。自分の魂が神に向かって進んで行く。自分の心が神に向かって育てられていく。ですから教会は心の故郷である心が育てられる。それはどう育てられるかと言うと、神に向こうて育てられるのである。所がここの所が育てられずに、おかげの方だけが育っていくと、必ず先生と言われ、又は身代が出来たりすると、所謂頭を下げる事を忘れると言うのは、神様の方え疎かになると言う事なんです。
今日私御神前で、あるお願いをさせて貰いよったら、ある方がこんな大きな腹をしとる。それがどうも普通の腹の太さじゃない。まぁ普通で言うなら腸満の様な腹病的なこう膨れておる。もう何にも入らんちこうしとる。大どん腹抱えたごたる風な格好してる。それがどうもただ食べ過ぎてとか、妊娠してからというのじゃない。どう見てもそれは腸満じゃろうと、腹の膨れる病気だろうと、いう様にしか見えない様な状態。
ですから私共がです本当におかげを頂いて、神様に頭を下げる事を、神様に頭を下げるという事は、自分の心が神様に向かわないという事ですよ。自分の心が心の故郷として、教会が、もう慕わしゅうて慕わしゅうて朝参ってから、又昼参らなければおられないと言った様なものなのです言うならば。心を育てられておる場なんですここは。だからもしそれがね無かったり、御理解を頂こうとしなかったりしとる時には、もうすでに腹一杯ではなくてです。それはもう腸満を患うとると思わにゃいかんです。
ここに警戒をしなければ。でなかったら必ず天で頭を打つ事になる。いやそれは本当のおかげになって育たないそれでは。信心と言うものはね、もう幾ら頂いても幾ら頂いても限りがないものが信心です。もう絶対腹一杯になるという事はないです。四十五節である。ここを私はこの四十五節を頂く時には、何時も始何時もが五真ん中所謂今中、そういう気持ちでと言う風に、ここを何時も私は頂いておりますけれども。何時も腹八分どころか、何時腹半分ぐらいしかなか信心は。
だから何時もいつも食欲は旺盛である。もう信心を頂こうとする心は何時も旺盛である。そういう時ならあなたの心は、神に向こうておる時なんです。例えばここにお参りをしてです、御理解を頂かないなんて、どんなに考えたって、頂きたくないなら、もうあなたは腸満の気があるとです。信心というものはねもう頂いても頂いても、限りがないものである。しかも頂くだけに、自分の心が成長するという事は。
神様の方へ向かって成長する。ですから自分のそういう信心の心、神に向かう心をお育て頂くのであるから、教会は心の故郷だと言われる訳です。教会に慕わしさがなくなってくる。教会へ教会へという憧念の心がなくなってくる時にはです。もう腸満の気がお互い出来よる時だと思わにゃならん。いうならもう慢心の気が出来よる時と、思わなければなりませんですね。本当にもう滅多にお参りが出来んのだから、滅多にお参りが出来た時だけなっと、一つ繰り返し繰り返しでも御教えを頂きたい。
いうならば丁度いつも腹半分の状態ですから、何を頂いても美味しい。と言う様な状態の時ならあなたの信心は、今成長のお育てを頂いておる時だという事になります。今日私はそこん所だけを、分からせて頂けば良いとこう思うです。頭を下げる事を忘れるという事はどういう事かと言うと、信心を頂こうとする心が忘れる訳です。腹が一杯なんです。だから頂かれんのです。もう昨日も食べたち言うごたる風に。米の御飯が毎日毎日、三度三度頂いても、やはり新たな美味しさというものを感じるように。
御教えと言うものは、同じ御理解を、例えば何回頂いても、そのたんびたんびに、血に肉になるものを感じる程しのものでなからなければ、そういう状態を作る信心とは。だから大改まりに改まらなければ出来る事じゃないでしょう。大改まり。和賀心が神に向かう、自分の魂が、いわば進化していく、それが信心なのである。昨夜の御理解に、「わがものと思えば軽し傘の雪」というこれは昔の誰かの句です。
わがものと思えば軽し傘の雪。昨日文男先生がお得意さんの所の、大きな病院の息子さんが、今度大学受験なのに勉強しない。それで先生どうぞ勉強するごとお願いして下さい、と言うてお初穂を頼まれてきた。それで私はご神米を下げてから、その事を書いてやった。子供に勉強せよ勉強せよと言うのは誰の為でしょう。しっかり本当の信心せにゃつまらんばい、本当な信心を分からにゃ、しっかり信心修行させて貰わにゃ。
まるきりそれは生の為のごとあるけれども、実際はここで言うならば皆さんの為に言うのでしょうが。所がそこにね例えば、不純なものがある。私を中心にした私を中心にした事から、信者にお参りせにゃいけんばい、修行せにゃいかんばいまちっとしっかりせにゃいかんばいと云うのであったら、是は不純な事になってくる。親が中心だから。だからその事を文男先生にようと分かるごと言うてんなさい。お医者さんですから後を又医者を継がにゃいけん。又は親の見栄とでも申しましょうか。自分が楽をする事の為に、子供に勉強せろと、言いよる様な事はないじゃろうかと。
問題はこの子が本当に幸せにならなければならないから。勉強せよと純粋に言うのであったら、それは神様の心に適うからそういう願い方だったら、子供が勉強するようになると私は言うた。けれどもうちあたりの家から言うても、どうでもどこどこの大学でなからにゃいけない。親の面子に対してでも親が楽になりたい、幸せにしたり人に自慢したいばっかりに良い大学に受かる為には、勉強をしっかりせにゃはぁ勉強せにゃと言うたっちゃですね、これじゃ神様へ通じない。と言うてまぁ言うた事でしたけど。
本当に自分がね本気で勉強するという気になったら、自分のものになるのだからね。勉強しなけりゃおられん、わがものと思えば軽し傘の雪である。どんなに例えば、そんなら重たい物であってもこれが自分がこの重い物によって力を頂くんだ、自分が頂くんだ人じゃない。自分が頂くのだと欲が出てくるならです。その事は有り難いとしか言えなくなってくる。信心は誰の為でもない。もう本当に皆さん一人一人の為なのです。
それは誰彼の事の為に、祈られておっても、やはりそんならそれはあなたの為です。そこでこれは教会長としても、考えなければならない事はです。ただ私を中心にして、しっかり信心せにゃ信心せにゃと、例えば言うておるのであったら、これは教会長自身も、不純なものがあるとして、改めなければならん。もう本当にあんたがおかげ頂かんならんけんばっかりよ、と言うものでなからにゃいかんのである。
それでいて勉強しよそれでいて信心せよ、という事にならにゃ信心とは自分の魂が、本当に神様の方へ向いてしまうという事なんだ、信心とはそして信心とは幾ら頂いても、幾ら頂いても、言わば頂き足りないような思いがする。何時でしたか北野の中村さんが、神様にあることを一生懸命にお願いしよんなさった。そしたら神様からね「おかげば頂き足らんごと思うとる」と言う厳しいお声を頂いた。だからおかげおかげであるならばです。そんなに、いやが上下さるものじゃありません。
それこそ頂き足らんごと思うとる。という事になるのです。ところが信心を頂きたいというのは、もう限りがないのです。神様の方もそうですし頂く方の側としてもそうなんです。もうそれこそいつもが、まあだ物足りない物足りないと言った様な、いうなら信心意欲と言うものが出てくる訳です。意欲が出てこないならば、もうあなたはぼちぼち腸満になりかかりよるとじゃと。言わば少し人間身代が出来たり、少し先生と言われたりしよるから、頭を下げる事を忘れておるのだ、もう腸満になりかかけておるんだ。
だからお腹の中はいつも一杯という事になるのだと。これはもう大いにね自分の信心を思うて進めていく、一つの定規のようなものじゃね。そこに押し当ててあいたこれは、私の信心は本気で信心の方へ向かなければだめだぞと。第一意欲をなくしてしまっておる。愈々食欲がない。これは病気の前提だとしてです、おかげを頂かなければならん。ここで、三宝様とあるのは、人間の一番大切なものという風に、今日は頂いて貰いたい。一番大切なものそれは矢張り自分の心である。
その心を大切にすると言う事が信心だと言う事。神に向こうていく魂が進化していく。もうこれ程魂を大切にする心を大切にする事はない。誰の為ではない自分の為。持っておる傘に雪が積もる。それでも自分のものと思うたら有り難いんだと軽いんだと。それをはぁ本当にこの寒いのにしるしい、その上雪まで降る。としるしさを感じる様な時には、まぁだ自分の心が育っていく事の楽しみという様なものが、まあだ出ていない時だと悟らせて貰ってね。愈々頭を下げる事を忘れる。
今日私はここん所を、本当に適切に頂きよると思うんです。それは信心しよるから、実意丁寧である。頭を下げる事なんかいつも神様には、平身低頭で拝みよるという意味じゃない訳です。信心を自分が頂く意欲がなくなった時には、こげんしとるけんで頭を下げられんでしょうが。それなんです。だからそん時にはもう既にあなたは、腸満にかかりよる時と思うて、大反省させて貰うて、愈々大改まりに改まらせて頂く、おかげを頂かねばならんと思うですね。
どうぞ。